摂食障害カウンセリング
中村綾子です。
摂食障害がなかなか理解されにくい理由はイロイロありますが・・・
食べることは、だれにとっても当たり前の行為だから
痩せたいと思っている人もダイエットしている人もたくさんいるから
でも・・・
摂食障害が「心の病気」という考えが、
ちゃんとある人って、あんまりいないんですよね。
今回のご質問をご紹介します。
*ブログ回答は、私の個人的な経験とカウンセリング方針に基づいています。
*全ての方に当てはまるとは限りませんので、予めご了承ください。
過度なダイエットから摂食障害になりました。
母にも、私の摂食障害はダイエットが原因だと言われています。
この場合の摂食障害は単なるダイエットのやり過ぎで、心の問題は関係ないのでしょうか?
ご質問をありがとうございます。
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1.原因が最初から分かっていることは少ない
2.ダイエットが全てになる心理
3.「母」と「自分」
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1.原因が最初から分かっていることは少ない
「原因探しはよくない」という意見がある一方で、
「原因が見つからないから治らない」と思い込んでいる方も
いらっしゃいます。
私は、原因は、回復しながら分かっていくことが多い、と
考えています。
拒食・過食・過食嘔吐の症状が激しければ激しいほど、
目先の症状に振り回され
目先の状態をどうにかすることばかりに心身のエネルギーが費やされてしまうのではないでしょうか?
激しい症状こそ、
原因をわかり辛くしていると言えるかもしれません。
卒業されていくクライアント様の様子を見ても、
卒業日(最後のカウンセリング)に、こうした振り返りを言葉にされる方がおおいです。
「今から思えば・・・◯◯が原因だったんですね」
「あの頃って、こんなふうに考える余裕もなかった」
「『原因がない!』と思っていたのは、病気って思えなかったからかも」
こんなふうに感じるのは
自然なことかもしれません。
拒食・過食・過食嘔吐が激しすぎて
考えるエネルギーが無かったのです。
症状があったからこそ、
本当の問題を考えずに済んだと言い変えることも出来ます。
本当の心の問題と向き合うことは
時にツラく
時に受け入れ難いことがとても多いのです。
そのため、心がある程度治ってきてから
本当の心の問題が分かっていくのではないでしょうか?
本当の心の問題が分かるようになってからが、
心の回復が、本格的にスタートしていくのです。
もしかしたら、年単位の長い道のりになるのかもしれません。
けれど、その長い道のりに、あなたの治療者がずっと寄り添っていることを
忘れないでいてください。
2.ダイエットが全てになる心理
メディア情報ではよく言われることですが・・・
「極端なダイエットが摂食障害を引き起こす」
私は、こうした考え方に賛成できません。
・・・・
ダイエット
↓
摂食障害
・・・・
ではなく、
・・・
心の状態
↓
ダイエットにハマってしまう
↓
痩せるだけが、自分の価値になってしまう
↓
抜け出せない
↓
心身がボロボロ
・・・・
という一連のプロセス全体を、摂食障害と呼んでいるのではないでしょうか?
ダイエットを開始する前に
ダイエットにハマる前に
かならず、「ダイエットが全てと考えてしまう心理」があるのです。
そうした根本を無視してしまっていませんか?
3.「母」と「自分」
今回いただきましたご質問に限らず、
こんな声が、とても多いです。
「お母さんに私の摂食障害は、『プチ(軽い)』って言われたんです」
「お母さんは、『3食きちんと食べれば、過食にならない』って言われたんです」
「お母さんから、『きっかけさえあれば、治るよ』って言われたんです」
この「お母さん・・」という発言。
あなたにとって、「お母さん」とは、どんな存在ですか?
「お母さん」は、母親ですよね。
母親としての役割と、治療者としての役割を、
親子共々、混在してしまっていませんか?
さらに、境界線の在り方が、とても気になります。
お母様の問題と
娘さんの問題の混在。
だれが
何のために
治っていくのか・・・
そうした当たり前のことさえも
分からなくなってしまっている母娘がとても多いです。
摂食障害ご本人の立場にいるあなたは、
お母さまと治療者は、別々だと、かならず意識してほしいのです。
もし、治療に関することに意見されたら、
ちゃんと境界線を引いてあげてほしいのです。
「それは、お母さんのいうことじゃないよ」
「お母さんじゃなくて、主治医(またはカウンセラー)に聞くから」
「今のはお母さンの意見であって、私の意見じゃないから」
どこまでキッパリと言い続けることが出来るかどうかです。
特にお母様が治療者と接点がない場合、
あなただけが、境界線を作っていける貴重な存在なのです。
境界線は、「話を聴く」にも通じるのです。