摂食障害専門カウンセリング
中村綾子です。
カナダ留学と摂食障害。
シリーズ化できたらいいなぁと思いながら書いています。
前回は、交換留学~カレッジ時代をお届けしました(前回の記事はこちら)
食べることが異常になっていった時期でしたが・・・今回は、ある出来事をきっかけに食生活の見直しに至ったことを書いていきます。
クリスマス休暇に、突然の不調に
カナダ留学中は、基本的にクリスマス休暇を利用して年1回、帰国していました。
帰国する度に、高校時代からの友人といくつもの予定を立てて、ランチをしながらお喋り・・・というのが一大イベントでした。
この時も、年明けに留学仲間と名古屋駅でランチしていました。
チーズリゾットとパスタを注文して、シェアして食べて・・なんか胃が重たいなぁ~と思いながらも、その後カフェに入って。
夕方、帰宅。
あんまり食欲は無かったものの、家庭料理をしばらく食べられなくなってしまうという気持ちから、母の料理を食べるものの、完食できず終了。
気持ちが悪いままお風呂に入るとさらに悪化し、無理やり就寝しました。
そして、真夜中!!!
あまりの気持ちの悪さに目が覚め、ベッドから一歩出たところで、猛烈な嘔吐。
狭い自室の床に嘔吐です。。。
トイレに走って、さらに嘔吐。
嘔吐の後、身体が寒くて寒くて、、、コタツに入っても寒くて寒くて・・・。
ちょっと温かい飲み物を・・・と飲むと、また嘔吐。
タクシーで母と日赤の救急外来に行こうとした時も、マンションのエレベーターを出ると嘔吐。
年明けの救急外来は、大混雑で、待ち時間がとても苦痛でした。
この時は、胃の病気という診断ではなく、ひどい便秘。
だから、上から吐き出すしかなかったんだろう、という診断でした。
明け方まで点滴して、帰宅しました。
泣く泣く、出発延期
帰宅した翌々日に、出発する予定でした。
でも、何も食べられなくなり、泣く泣く出発延期に。
何も食べられないし、
気持ち悪いし、
胃も痛い。
でも、家族はだれも英語が出来ないので、カレッジに連絡を取るのは全て自分でやるしかありませんでした。
一体誰に連絡を取ったらいいのかも分からず、学費がどうなるのかも分からず、在籍しつづけられるのかどうかも分からず・・・
不安でいっぱいの中、数回話したことがあるガイダンスカウンセラーにメールを送りました。
運よく、話は通じて、学費も90%が返金可能だと教えてくれました。
そして、この学期を「取らない」ことに決めました。
日本でいう休学ともちょっと意味合いが異なります。
1学期1学期を、「取る」という感じなので、1月~4月の学期を「取らなかった」という選択をしました。
休学でもなく、退学でもなく、「取らなかった」という感じです。
飛行機を延期して、数週間後、アパートを引き払うためにカナダに向かうことを決めました。
片付けに行くと、編入許可のメールが届く
片付けに向かったカナダで、幸運なことが起こりました!
カレッジに行き、
先生たちに挨拶をして、
パソコンルームに向かいました。
周りは、課題をしているのか、
忙しそうに見える学生たち。
「あぁ、私は逃げて帰るのか・・・」
そんな落ち込みモードで、自分のメールを開くと・・・
congratulations! という文字が。
カレッジに在籍していたのは、4年制大学に編入するためでした。
同じブリティッシュ・コロンビア州の大学3校に、願書を出していました。
でも、私の知るかぎり、カナダは全体的にルーズなところがあって、いつ返事がくるのか来ないのかも分からない・・・という状況でした。
なので、出願した大学から、どのタイミングで、どんな返事が来て、どういう流れで合否が出るのかも未知の世界でした。
だから、このメールは本当に奇跡的なタイミングで、ビクトリア大学からの編入許可が届いたのでした!
記憶だけを頼りに書くと、
2002年10月頃、願書を郵送
2003年1月、編入許可のメール
2003年5月、ビクトリア大学編入
という流れになりました。
なので、残り4ヶ月は、日本でゆっくりしよう!と思えた時期でした。
嘔吐のホントの原因。そして拒食症とのつながり。
日赤の救急外来の後、近所の内科に行ったり、ふたたび日赤に行ったり。
胃カメラをはじめとした色んな検査を受けました。
胃潰瘍寸前の状態。
この時、21歳でした。
胃カメラで撮影した写真には、素人の私がみてもハッキリ分かる「出血した跡」がありました。
一応、処方された薬を飲んでいました。
でも、きちんと治ったかどうか・・・かなり曖昧のまま、治療を終えてしまいました。
これが、数年後の拒食症にもずーっと繋がります。
「食べたいのに食べられないのは、胃が悪いから」
「胃が気持ち悪くならなければ、私は食べたいし、食べられるし」
「ちょっと食べると胃がもたれるから辛い」
拒食時代、こうしたことをずーっと言っていました。
精神科・心療内科の主治医からは、「真夜中の嘔吐」を知っても・知らなくても、いつも「摂食障害のせい」と言われ続けてきました。
当時の私には、一層「分かってくれない」という気持ちが強くなった理由の1つだと思っています。
食生活を見直した大学生活
胃が治ったのか、治っていないのか良く分からないまま、希望だけは大きく膨らませて、再びカナダに出発しました。
第一希望だったビクトリア大学に受かったのですから、嬉しくてたまりませんでした。
カレッジ留学時代は、寮・ルームシェア・ひとり暮らしとかなり転々として、落ち着かなかったので、今度こそ卒業まで快適に住める場所を探しました。
住むところも、ホント理想的な場所が見つかりました。
そして、自炊。
食べることを見直さないと!という気持ちが、とてもとても強くわきました。
同時に、4ヶ月間、日本の実家で母の手料理を食べたのもいい経験になりました。
さらに、ビクトリアで住んだところには、巨大な中国系スーパーも近くにありました。
もち米や小豆を手に入れて、赤飯と炊いたり、ココナッツミルクでカレーを作ったり、野菜とカニカマと卵くらいしか具材が無くても手巻きずしを作って友達を呼んだり・・・
食生活は、かなり充実していきました!
(今の日本でのひとり暮らしよりも、ずっと充実の完全手作り生活をしていました(笑))。
けれど・・・
胃の不調は相変わらず続き、胃がもたれたり、数か月に1回嘔吐したり・・・の状態でした。
日々のプレッシャーと大きな出来事
さらに、いろんなプレッシャーが積み重なっていくのでした。
・見た目も中身もスマートな日本人というプレッシャー。
・成績が良くないと大学院には行けれないというプレッシャー。
・大学に進学したものの、英語が分からないというプレッシャー。
・日本の大学院受験のために自力で勉強するプレッシャー。
その上で、大きな出来事もありました。
・祖母の他界
・実家まるごと引越し
超・多忙な大学生活をしながら、自力の受験勉強。
急に押し寄せてくる「日本語」という言葉。
ゼロからの、日本語での専門用語。
何がなんだか分からないほど、忙しい日々をとにかく必死にこなしていた毎日でした。
その中で、きちんとじっくり考えないといけないことがありました。
それは、
帰国したら、どこに住むか?
です。
実家まるごと引越しのため、両親と兄(当時、婚約前)は、愛知県内の田舎で同居することに決まっていました。
そこに、私が一緒に行くのか、行かないのか。
どこの大学院に受かるかどうかも決まっていない中、決断を迫られる私。
でも、考えている余裕もない毎日。
曖昧な返事を続ける中、とにかく勉強ばかり・・・。
急に降って沸いたような「実家まるごと引越し」に、心がついていけなくなっていきました。
元々住んでいたマンションに気持ちの区切りはつきませんでした。
このことは、拒食症の発症だけではなく、摂食障害の終盤までずーっと引きずりました。
続きは、後日改めて書いていきたいと思います。
こうした経験があるため、カウンセリングでは「家」という場所や、家族の引越しについて、とても詳しくお話をお聴きしています。
どこからどこに引越しした、という事実だけではなく、引越しを知った時、どんな気持ちだった?
引っ越した後、以前の場所に戻りたいと思ったことはある?
新しい家を、どう思った?
摂食障害と関係のないように思われるかもしれませんが、衣食住という言葉があるように、住む場所も「食」と繋がっているのです!